「届ける」ための戦略疲れ
こんにちは。自分のコンテンツを届けるために、心を砕いて創意工夫を凝らす方々はすごいなぁと思う反面、とてもじゃないが自分は出来ないと思うミナトです。
みなさんは自分のことや伝えたいことを伝えるために戦略を練ったりしますか?
私はちょいちょいやります。人に好いてもらえるように自分から話しかけて、いいとおもったことをさりげなく褒めて、その人の好きなものを覚えてそれに触れてすぐに感想を言ってみたりだとか、他のだれも褒めないけど、その人が好きで一生懸命になっていることを「素敵ですね」って言ってお話を聞いたりとか。
こう書くと完全に打算で人間関係をやっている人間になりますが、そこまでではないです。口に出す言葉に嘘は含ませません。良いと思わないことはスルー、良いと思うだけ言葉にします。
例えば、ブログでも検索されやすい単語をタイトルにしたりだとか、みんなが困ることの解決策をまとめてみたりだとか、イラストや写真で目を引いてみたりだとか。やってるよねみんな。素敵な戦略。
でも、私はそういうことをする気力が少し果てている。このブログを始める前から果てている。人の注目を引けているか、満足させられているかなんてものは、適切にPDCAサイクルを速く回せば、遅かれ早かれある程度の成果にはたどり着くだろう。
けどそれって普通に大変。
仮説を考えるのにもきっかけと根拠がいる。仮説を立てたとしてもそれを実証する実験計画をたてなければならない。まあ実際の実験研究と違って、厳密な実験計画書なんて書かなくていいのが救いだけれど、効果が測れなければ意味がないからある程度それらしいものを考える必要がある。それを実行する労力も必要だし、結果を分析して効果を考察しなくちゃならない。
これを人間関係にあてはめたらこうだろうか。
「褒められる」というのはどんな人も大抵嬉しいことだ。では、今日会う人全員を一回以上は褒めてみよう(計画)。
「おはよう、今日の服もセンスがいいね」
「そんなことまで出来るの?すごいね!」
「それができるのはあなただからだよ。大切な才能だと思う」
「みんなそうすべきだってわかっているけど、そこまで人を思いやるってなかなかできることじゃないよ。」(実行)
一カ月ほどそうして過ごすと褒めた人々が私に優しくなった。頻繁に声をかけてくるようになって、遊びにも誘ってくれる。やはり褒めるというのは仲良くなるうえで必要なのだな、と。
人を褒めることは私の特技だと思っているので、これはだいぶ楽にできるほうではある。でもでも、大変なのには変わりない。得意と言ってもさすがに息をするよりはかなりかなり大変。疲れる。
あれ、そういえばPDCAじゃないね。それはさておき。
起承転結、読み手への配慮、目を引くキャッチーさ、旬のジャンル、ランキングの載り方etc... そういったものにもう若干疲れてきた。そういうことに労力をかけ、時間を割き、心を砕くことが苦しい。
話を聞いてもらうにもお金がいる、人を喜ばせる話術がいる、「この人の話を聞きたい」と思わせるような関係構築がいる……
自分が探求して考察したことを何もしなくても求めている人のもとに届くようなシステムがあれば、この苦しみもたちどころに解消されるのになぁ~。
自分の価値を考えると体調悪くなる
毎回、その記事にあった簡単なイラストをつけようと思ったのに、タブレットのペンが壊れてすでに計画がとん挫しました。
こんにちは。中学時代にメンタルの不調をやってから、定期的に精神的に不安定になる系人類のミナトです。
昔から、「自分の価値」というものを模索していました。自分は役に立っているだろうか、自分は生きている価値があるだろうかと、自問自答を繰り返しては落ち込む日々をもうかれこれ10年は続けていると思います。
順繰りにシュート練習をするバスケの授業は、下手な私が貴重な練習時間を取っては迷惑なので、自分の番が来るとシュートをせずにそのまま一番後ろの列に並びました。
傍から見ればおかしいやつですね。一緒に練習するクラスメイトからすれば逆に迷惑な話です。
ちなみに練習しないくせに列には並んでいた理由はさぼっていると思われるのは心外だったからです。
自分の価値、というものを考えていると、お金の使い方に思考がいたります。自分に対してお金を使うことに言い表せない罪悪感が芽生えます。
例えば、「こんな自分にお金を使うなんて……」と思ううちにご飯を食べなくなります。
インフルになって、試験を休んだ時は「もし追試もダメだったら……」と考え、成績急降下→奨学金打ち切り→お金がなくなる!と思って過呼吸をおこしたりもしました。おもしろい。
ひどいときには自分にかかるお金だけでなく、消費する酸素までもったいなく感じます。中学生の時は、「私が呼吸してしまってごめんなさい」と思いながら生きていました。
冷静に考えるとなかなか思い詰めていて、たぶん不安症かなにかをこじらせているような気がします。今もたぶん、治っていません。でも自分の価値を考えても、本当に体調が悪くなるだけだということは分かっています。主観と客観は全く別物。
もし同じような気持ちの人は一度心療内科を受診するなど、専門家の意見をお聞きになったらいいかもしれませんね。私も色々行ってあがいたりしていますが、とにかく心が健康であることが一番の価値だと思うので。
そういう時は、今は鬱々とするフェーズに入ったと思うことにしています。気分が落ち込むのは自分のせいではないので、とりあえず違うことをすると気がまぎれます。
違うことなんてできない!というときは一度深呼吸をしてください。
深く深く息を吐いて、肺の中の空気をすべて出したら、身体のすべてを満たすように息を吸います。
一度気がまぎれてもたぶん、考え事をするとまた同じ苦しい思考サイクルに入ってしまうと思います。大きなことなんて何一つできなくていいので、今日できることをやります。私はこのブログを書き上げて投稿することにしました。
ひとつひとつできることを増やすと、少しだけ気が楽な時間が増えるのでそれでひとまずは生きつないでいけばいいんじゃないでしょうか。
死にたがりの中学生の私にそう伝えたいね。
またまとまりの皆無な文章になってしまった。次からは読みやすくわかりやすい文章を書きたいですね。
かつての私へ 生きづらい人間のサンプル001

私が書いた小話を読んで、「貴方の文章はわたがしみたい」と言ってくださった方がいた。
元気でいますか。私は元気にやっています。
はじめまして。私はミナトという名前で、普段は勉強したり、絵を描いたり、ゲームをしたりしています。つまるところ大学生をやっております。
さきほど衝動に任せて記事を挙げてしまいました。これを一本目にするつもりだったのに
ゲームと読書と歴史とミュージカルが好きで、口下手コミュ障で人生の調子が長らく悪く、一人が好きなのに目立ちたがりの、この世界のどこかにいる人間です。
このブログは、似た思いをしながら生きているあなたに届けばいいなと思って書いています。
かつて己に絶望した時は無限にネットサーフィンに繰り出す日々を送っていました。自分と似ている人の生き方は安心と希望をくれました。
怯えながらもネットで人と関わることを始め、その中で出会った方から冒頭の言葉をいただきました。私が人生で最も大切にしている言葉のひとつです。
優しくて繊細で、あまくてやわらかい言葉が、私の強みだと思うし、いまでもいちばん大事にしています。
生きづらさを感じているあなたへ、サンプルデータのひとつという感覚で眺めていただけると幸いです。
そしておこがましいことですが……このブログを通して、その人にとって眩しい、その先の道をほんの数センチでも照らす存在になれたらいいなと思います。いつかはその人の人生の旅路を長く照らすランプのような言葉をパッと出せる人になりたいですね。
奇想天外な発想も、唸らせる圧倒的な文才もないけれど、思うままに綴ることはできるものね。
ちょっぴり生きづらいけれど、それでもまだ生きているみんなに乾杯。
人生ずっとダンゴムシ
人間と関わるのが怖くてずっとまるまっているばかり。人生ずっとダンゴムシ。
いや、こういうこと言うとダンゴムシさんに失礼。私よりダンゴムシさんの方がはるかに強くたくましく生き抜いてらっしゃいます。
20年生きてきても人間を怖がる癖が全く抜けない。完全に一人でいるときは「やったるで卍卍」なのに、いざ他人と関わると委縮恐縮顔色伺いオンパレード。とにかく攻撃されるのが怖くて、いつまでも丸まったままのダンゴムシ。
この「人間が怖い」という感情はなかなか厄介で、そうそう治らないだけでなく理解されないところがある。言い換えとして「周りの人にどう思われるか怖くて……」だとか「嫌われたくないので」だとかがあるが、このカードを切ると高確率で「そんなの気にしなくていいんだよ!!!」が場に出したカードを貫通しプレイヤーに直接ダメージを与える。
ド正論である。全くその通りである。
けれど、私は腑に落ちない。
そうはいっても、人間が怖いのである。
そもそも、私が人間が怖いと思った理由は中学高校時代のよくある同調圧力とルッキズム云々。いじめられたわけではなく、単体の(それもたった数回の)悪口が鋭く胸にささったまま炎症を起こして、今日まで後遺症を残しているだけである。これは、世の一般からすれば当たり前のことであり、「もっと辛い思いをしている人がいる」ということでお流れになる些末な出来事である。
私の辛さはいついかなる時も取るに足らぬ些末なもので、誰もが味わう苦しみであるから、乗り越えて強くあれと。つもりはそういうことである。
今は多様性を尊ぶ優しい世界である。私のような繊細な人間にも配慮してくれる。
「そう、そんな取るに足らないことでもあなたは傷つくのね」と言われているような気がする。
分かっている。あくまで気がするだけであり、完全なる被害妄想である。
けれど、脳内で、勝手に、まるで副音声のように実際の声に重なって聞こえてくる。
悪いのは他人ではなく、こうした副音声を流す私の脳である。
人間が怖いということを誰も本当の意味で理解してくれないことを悟る旅、「まだ辛さが足りないんだ」と思っては追い詰めることを繰り返す。そうして精神に限界がきて、多少日常生活に支障が出るが、それでもわかってもらえない。それでもまだ足りない。
意味がなさすぎる。何をしているんだ本当に。
誰かからの許しと肯定がなければ「辛い」と言ってはいけないと思っている。第三者の目から見て「うむ、これは苦痛を訴えて良し」と言われなければいけない。
だからこそ、追い詰める。いつか必ず「それは苦しかったね」と本心で言ってもらうために。
率直に言って、これは馬鹿のすることである。
こんなことをする必要は微塵もない。
ひっそりと、誰かに聞かれて「繊細(笑)」ってバカにされないように。
私だけが私の辛さを癒してあげる。
誰が何と言おうと
辛いと思ったら辛いでいいじゃんね
アイス食べよ